勝手にさよなら

浮遊の記録

断片

記憶力がなく、「昔あんなことがあった」という話で盛り上がる時についていけないことが多い。みんなが覚えている出来事を俺だけ忘れている、ということがよくある。暗記も苦手で、理科や社会は頑張ってもあまり成績が伸びなかったし(高校も大学も英国数で進学した)、古文や漢文ができないので現代文で点数を稼いだし、英語も単語の問題が苦手だった。断片的な記憶はあるのだが、それがいつのことかわからないし、そもそも本当に自分が体験したことなのかも定かじゃない。映画や本の世界と混同してることもあるし、夢かもしれない。でも、いずれにせよ、曲を作る時にはそういう断片から作品を広げていくことがよくあるもので、今回の新曲もそんな感じで進めていった。

Airrideは、昔友達の家でゲームをして遊んだ記憶が元になっている。タイトルも当時よくプレイしていたソフトの名前から取った。その他にも、ポテチの油でヌメヌメしたコントローラーのスティックや、その家のベランダから見える町の景色など、これまで生きてきた記憶の数々、さまざまな断片的な点が繋がりあって、星座みたいに一つの作品が出来上がる。そういう感覚が自分にはあるので、曲について聞かれた時はそういう説明をすることが多いのだが、こないだ妹に「あの歌詞の一節はあの映画を元にしているのだろう」という指摘を受けて、ああ、そういえばそんなシーンがあったっけ、、、じゃああれは俺の記憶ではなかったのか!と驚いてしまった。

歌詞というのはフィクションとノンフィクションの境界が曖昧なのだなぁとつくづく思ったのと同時に、このように、書いた本人ですらあやふやな言葉の羅列なので、人それぞれの解釈があって然るべきだと思うし、どこか一行だけでも、今のあなたに何かを感じさせたなら、それは素晴らしい断片になり得るだろうな、とも思った。

星が瞬く夜に

VIVA LA ROCKでBiSHにハマった。1曲目の「BiSH -星が瞬く夜に-」で完全に心を掴まれて、6曲目の「オーケストラ」ではもう知らん間に目から涙が溢れてきて、自然の摂理みたいに、当たり前のように涙がツーっと頬を伝い、自分でもその呆気なさに笑ってしまった。

まずめちゃくちゃ良いシンガーが揃ってるってのが強い。アイナ・ジ・エンドの個性的な歌声は言わずもがな、セントチヒロ・チッチが正統派で王道に上手くて感動して、アユニ・Dの幼児的なボーカリゼーションも最高。この3人が抜群にロックスターで、代わる代わる歌い上げられて完全にノックアウト。解散が決まってるっていう儚さも相まって、パフォーマンスから滲み出てる刹那感がすごかった。なんかパンクとかグランジみたいな衝動があるな、と思ってMVを見漁っていたら、アユニ・Dがカートコバーンみたいな服着てて合点がいった。そもそも「楽器を持たないパンクバンド」というスタンスらしい。確かに“ロック”とか“パンク”のフォーマットに則ってバンドをやるより、これくらい斬新で突飛な方がよっぽどその精神性を反映できてると思う。

6月に東京でライブがあるみたいなんでとりあえず応募した。会場が小さいので倍率がすごいことになりそう。

ヤングキング

こないだライブで福岡に2泊したのが小旅行みたいで楽しかった。初日、宿の近くの銭湯でサウナ室に入ったら週刊少年ジャンプヤングキングが置いてあって、読んだことないヤングキングを手に取ってパラパラと読んでみたら、どの作品も面白くてハマってしまった。大学生の頃なぜか週刊スピリッツを熱心に購読してる時期があって、特に目当てがなくてもいろんな作品を定期的に読める漫画雑誌の魅力を久しぶりに思い出した。で、そのヤングキングの最新号が今日発売やって、さっき駅前のファミマで買って、マクドで読んだ。やっぱり面白い。月2回発行らしいので、熱心な漫画ファンじゃない俺にはちょうどいいかもしれない。それにしても、いつ頃からか少年漫画のテイストに上手く乗れなくなってて、最近のジャンプの盛り上がりにもついていけてないのが少し寂しい。と思ったけど、よくよく考えたら当時もピューと吹く!ジャガーを真っ先に読んで、ボーボボとかいぬまるだしっの単行本を買い揃えるようなちょっと変わった読者やったし、別にそんな趣味が変わったわけでもないか。

シカゴとウィーンの間で

年々引き篭りがちになってて、このままじゃヤバい!と思ってたまに散歩したりするんやけど、そういう時に聴くアンビエントがめっちゃ心地いいので、最近は歌のない音楽ばっか掘って聴いてる。

これは最近見つけたお気に入り。シカゴでチェロを弾いてる女の人の作品。遠い場所の、何の関係もないような人の音楽やけど、音楽を媒介にして確かに繋がってるって感覚が好き。ヤジコの音楽もストリーミングサービスのおかげで海外の人からも結構聴かれてて、こないだ大学時代の先輩から「今日ウィーンでカフェ入ったらYAJICO GIRLのFIVE流れてたよ!」って連絡がきて、なんかそれが神秘的な体験すぎて、感慨深くて泣きそうになったりした。ひとりで家に篭りがちでもあんまり寂しくないのは、やっぱり自分の音楽が人に聴かれてるってところが大きいと思う。それで最低限の承認欲求は満たされているのだろうし、作品を通して他者と繋がってるっていう全能感は何物にも代えがたい。

芥見下々

こないだラジオを聴いてたら、パーソナリティの人が「今の世の中ほど呪いに満ちた社会はない」みたいなこと言うてて、“呪い”というキーワードについてここ最近考えてる。考えてる、というか、ちょっと気にしてみてる。呪いというのは人を縛る力を持っていて、そうなると、髪長いのより短い方が似合うね、とかも場合によっちゃ呪いになるかもしれないなと。こういうのは私らしくないから、とか、こういうのは似合わないから、とか、自分で決めたのならそれでもいいんやろうけど、それが他人からの影響だとすれば、ちょっと考え直した方がよさそう。こうであらねばならない、みたいな仕事論とか芸術論も、よく言えばこだわりって捉えられるんやけど、そこにも“縛り”の作用があるのは確かで、結局は自分の感覚を信じた方がいいような気がする。

2年ぶりの投稿

はてなブログに文章を書いてたのをなぜか急に思い出して、久々に読み返した。2年前くらい、まだ大学生の延長線上で、コロナ前で、もっと純粋でナイーブで青かった頃の自分が書いた文章。カッコつけた文体(今では恥ずかしくて一人称を“僕”にはできない等)も、内容も、今読んだら恥ずかしいものではあったけど、めっちゃ正直に書いてるし、その勇気とか心意気に感動してしまって、たったの2年で俺はかなり臆病になったんだなぁと実感させられた。

それはこの2年間でいろんな知識や経験を積み重ねて起きた変化なんやろうけど、それがいい方向に働いてるとはあんまり思えない。まず“断定”することにおじけづいてる節がある。それは客観的な視点が持てるようになったことの裏返し。いろんな本を読んでいろんな思想を知ると、ものごとを多角的に見られるようになってくる。カメラの置ける位置が増える。正面は完璧に見えても、後ろから見たらどこか野暮ったいとか、クローズアップすると穴が空いているとか、ロングショットにすると、そもそもこんなの無価値では?とか、いろんなマイナス面を見ることができるようになって、より打算的に、効率的に思考するたびに、思い切ったことが言えなくなってきている。元々がそんな目立ちたがりの自分じゃないから余計に、少しは個性を出したいけど悪目立ちはしたくないかな、という面白みのない場所に収まってしまう。

知らない間にかなりの傷を負っていたのかもしれない、とか考える。別に毎日幸せやし、病んでるわけじゃないのやけど、自分の中にあった穢れなきピュアさが消失しかけているということを実感してしまって、少し狼狽えてる。消失しかけてるというか、外敵の侵攻から身を守るために厚い壁を何重にも隔てたせいで、自分自身もコアに辿り着けなくなってるみたいな感じがする。見えなくなってきている。

またこのはてなブログにぽつぽつ文章を書くのもいいかもしれない。「勝手にさよなら」ってタイトルは当時の自分がつけたんやろうけど、全く意味がわからない。多分ゴダールの「勝手にしやがれ」を観たばっかでそれに影響を受けたとかかな。何にせよ、ここならもう一度もっと気軽に真っ直ぐ言葉を紡いでいけるかもしれない。noteでもいいんですけどね。でもなんかこっちの方が濃いイメージがあるのは何でやろう。noteは良くも悪くも淡白でスマートな感じがする。まあ二刀流でもええんやけど。

そもそもミュージシャンがこういう文章をたらたら書いてること自体いいのか悪いのかよくわからんのやけど、“いいのか悪いのかよくわからんからブレーキをかける”っていう思考の癖からそろそろ脱却したい気持ちもありで、相変わらず曖昧なところをふわふわと浮いているようです。この決着のつかなさ、解決のしなさを「浮遊の記録」と題して、意味不明のタイトルの下に添えることにした。

CALM DOWN、BE YOURSELF。

初めてカニエ・ウェストを聴いたのは高校の時だった。雑誌かなんかで名前を知り、iTunesで試聴して、その後、通学路の途中にあるTSUTAYAで『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』を借りた。初めてOasisNirvanaを聴いた時と同じような衝撃、胸の高鳴り、そして何よりもアルバムとしての完成度の高さに感動したのを覚えている。あの頃は好きなアルバムを繰り返し聴くことが、自分なりの音楽へ情熱の注ぎ方だった。繰り返し聴くことで、新たな驚きや発見が生まれ、自分の世界観や感受性が広がっていく。音楽と一人向き合うことが、自分を自分たらしめる営みの一つだった。

あれから数年経ち、2018年にカニエ・ウェストは7曲以上30分未満のアルバムを5週連続でリリースした。ストリーミングサービスが主流になって以降、アルバム単体としての完成度を犠牲にしてでも収録曲数を増やすアーティストが多かった中、カニエのこのやり方はストリーミング時代の攻略法の一つの最適解だった。また、7曲以上30分未満というこのバランスは、作品のクオリティを保つだけでなく、リピートするのにもちょうどいい長さだった。繰り返し聴くという喜びを強く実感できる形式だった。その次の年、僕は9曲で26分の『インドア』というアルバムを作った。

2019年6月、Netflixでインタビュー番組『デヴィッド・レターマン 今日のゲストは大スター』のシーズン2が配信された。その第一回目のゲストがカニエ・ウェストだった。インタビューでは双極性障害メンタルヘルス、#MeToo運動、トランプ政権など、シリアスな話題が多く議論され、終始ヒリヒリした緊張感が漂っていた。彼はその中で自由な思考について語った。

法廷では両者が意見を述べられるのに、今は一方的な攻撃があればそこで争いは終わる。(中略)世間とはズレた発言をしてしまうかもと恐れることもある。でも全員がそろって同じ考えを持つ必要はない。意見は違っていいんだ。

 また、番組の終盤ではカニエが主催する「Sunday Service」の模様が映された。そこではジェームズ・タレルの作品を参考にした照明について語られた。

U2の前座をやったりDaft Punkのライブを見に行って思った。彼らはストロボや派手な演出をする。観客のテンションは上がるだろう。一方でタレル流の照明は禅の世界に人々を引き込む。生活をしていると、興奮したり恐怖を感じたりするだろ。そういうことに打ちのめされないように手を貸してくれるんだ。静寂や安定、今この瞬間を大事にするのがテーマだ。

 控えめな照明の中、「俺はやりたいようにやる」と切実に歌う彼の姿はどこまでも純粋で、素直に感動する。Netflixに入ってる人は是非観てほしい。

2019年8月、YAJICO GIRLは事務所の主催イベントに出演した。この日は照明をBAGS GROOVEの平山さんにお願いし、主に『インドア』の収録曲でセットリストを組み、事前に音源をお渡しした。本番、平山さんは全編通して青みがかった落ち着いたライブ空間を演出してくれた。ライブの最中、本当に心地が良かったのを覚えている。さすがチームサカナクションだなぁと感心して、その時はまるで気づかなかったのだが、よくよく考えてみると、この照明デザインはカニエの「Sunday Service」と同じ趣があった。カニエに感化されて作った『インドア』を聴いた平山さんの照明が、奇しくも「Sunday Service」の照明と似通っていたのだ。嬉しかった。作品のフィーリングが正しく伝わっている証だと思った。

SNSが盛んになって以降、全てがバズみたいなものと結び付けられることで、物事がより派手な方へ、より刺激的な方へ向かうことが多くなったような気がする。もちろん素晴らしい映画や音楽は作られ続けているし、SNSのおかげで進展している物事もきっとたくさんある。それでも、気を抜くといつの間にかパッと目立つ方へと意識が傾いてしまうし、知らない間に情報過多な世界に飲み込まれているケースは多いはずで、なんとなくイメージがいいもの/わかりやすいものを手にとってしまったり、次々に新しいものへと目移りしたりする。それでいいじゃないかという意見もあるにはあるのだが、それで終わらせるのもなんだか寂しい。消費しているようで消費されているような、こんな時代だからこそ、「動」ではなく「静」に、「光」ではなく「影」に目を向け、心を落ち着かせる時間があってもいいと思う。CALM DOWN、BE YOURSELF。それだけを祈りたい。