勝手にさよなら

浮遊の記録

2年ぶりの投稿

はてなブログに文章を書いてたのをなぜか急に思い出して、久々に読み返した。2年前くらい、まだ大学生の延長線上で、コロナ前で、もっと純粋でナイーブで青かった頃の自分が書いた文章。カッコつけた文体(今では恥ずかしくて一人称を“僕”にはできない等)も、内容も、今読んだら恥ずかしいものではあったけど、めっちゃ正直に書いてるし、その勇気とか心意気に感動してしまって、たったの2年で俺はかなり臆病になったんだなぁと実感させられた。

それはこの2年間でいろんな知識や経験を積み重ねて起きた変化なんやろうけど、それがいい方向に働いてるとはあんまり思えない。まず“断定”することにおじけづいてる節がある。それは客観的な視点が持てるようになったことの裏返し。いろんな本を読んでいろんな思想を知ると、ものごとを多角的に見られるようになってくる。カメラの置ける位置が増える。正面は完璧に見えても、後ろから見たらどこか野暮ったいとか、クローズアップすると穴が空いているとか、ロングショットにすると、そもそもこんなの無価値では?とか、いろんなマイナス面を見ることができるようになって、より打算的に、効率的に思考するたびに、思い切ったことが言えなくなってきている。元々がそんな目立ちたがりの自分じゃないから余計に、少しは個性を出したいけど悪目立ちはしたくないかな、という面白みのない場所に収まってしまう。

知らない間にかなりの傷を負っていたのかもしれない、とか考える。別に毎日幸せやし、病んでるわけじゃないのやけど、自分の中にあった穢れなきピュアさが消失しかけているということを実感してしまって、少し狼狽えてる。消失しかけてるというか、外敵の侵攻から身を守るために厚い壁を何重にも隔てたせいで、自分自身もコアに辿り着けなくなってるみたいな感じがする。見えなくなってきている。

またこのはてなブログにぽつぽつ文章を書くのもいいかもしれない。「勝手にさよなら」ってタイトルは当時の自分がつけたんやろうけど、全く意味がわからない。多分ゴダールの「勝手にしやがれ」を観たばっかでそれに影響を受けたとかかな。何にせよ、ここならもう一度もっと気軽に真っ直ぐ言葉を紡いでいけるかもしれない。noteでもいいんですけどね。でもなんかこっちの方が濃いイメージがあるのは何でやろう。noteは良くも悪くも淡白でスマートな感じがする。まあ二刀流でもええんやけど。

そもそもミュージシャンがこういう文章をたらたら書いてること自体いいのか悪いのかよくわからんのやけど、“いいのか悪いのかよくわからんからブレーキをかける”っていう思考の癖からそろそろ脱却したい気持ちもありで、相変わらず曖昧なところをふわふわと浮いているようです。この決着のつかなさ、解決のしなさを「浮遊の記録」と題して、意味不明のタイトルの下に添えることにした。